FAZER LOGIN朝食のない食卓というものが、これほど広く見えるとは思わなかった。
蓮司はダイニングの中央に立ったまま、しばらく動けずにいた。
澪が出ていった玄関の扉は、もう閉まっている。車の音もとっくに遠ざかり、家の中には壁掛け時計の針が進む音だけが残っていた。
テーブルには離婚届と結婚指輪、それから短い手紙がある。
三年間、毎朝この場所には何かしら匂いがあった。
焼いたパン。淹れたてのコーヒー。出汁の利いたスープ。時には季節の果物を切った甘い香り。
そのどれもない。
あるのは、紙と金属だけだった。
「……馬鹿馬鹿しい」
蓮司はそう呟き、手紙を折り直した。
感情的になっているだけだ。
昨日のパーティーで母に侮辱され、自分も十分に庇わなかった。その不満が積み重なり、澪は勢いで家を出た。少し時間を置けば落ち着くだろう。
そう考えた方が合理的だった。
離婚という言葉まで出したのは驚いたが、本気で三年間の結婚を終わらせるつもりなら、もっと前から何か兆候があったはずだ。
蓮司はそう思い、すぐに自分の考えに引っかかった。
兆候。
本当に、なかったのか。
昨日の夜、澪は言った。
喧嘩をしなかったのではなく、自分が言わなかっただけだと。
寂しいとも、もっと一緒に食事をしたいとも、休日に出かけたいとも言わなかった。
蓮司はそれを「不満がない」と受け取っていた。
今になって考えれば、随分都合のいい解釈だった。
だが、まだ離婚を受け入れる理由にはならない。
蓮司は離婚届を手に取った。
澪の署名がある。
筆跡は普段と同じだった。震えてもいない。怒りに任せて殴り書きしたものでもない。
そこが妙に腹立たしかった。
これほど大きな決断をしておきながら、なぜこんなに落ち着いて書けるのか。
「社長、お時間です」
背後から秘書の声がした。
いつの間に来ていたのか、玄関側の廊下に片桐が立っていた。
四十代前半の男で、蓮司が社長に就任した頃から秘書を務めている。私生活へ踏み込みすぎないことを信条にしている男だが、今だけはさすがにテーブルの上を見て表情を変えた。
「……奥様は?」
「出た」
「出た、というのは」
「家を出た」
片桐は一瞬だけ離婚届へ目を落とした。
「本日のお車はどうなさいますか」
さすがに何も聞かない。
そういうところは助かる。
「予定通りでいい」
「九時から海外事業部との会議、その後十時半に銀行側との面談です。十一時四十五分からは先方との昼食会があります」
「ああ」
「それと、こちらですが」
片桐が差し出した封筒を受け取る。
中には、昨夜のパーティーで発生した報道対応のメモが入っていた。
御堂家の創業記念行事には複数のメディアが入っている。美佐子の発言そのものは公には漏れていないものの、澪が途中で会場から離れたことを見た者はいる。
「余計な記事になる前に、広報へ一言伝えておけ」
「どのように?」
「家庭内のことについてコメントは出さない」
「承知しました」
片桐はそこで一度言葉を切った。
「奥様へお車を回す必要はありませんか」
「必要ない」
即答した後で、蓮司は少しだけ気になった。
あの黒い車。
自宅の車ではなかった。
「今朝、門の外に車が来ていたな」
「はい」
「ナンバーは確認したか」
「警備記録には残っているはずです」
「調べておけ」
「かしこまりました」
片桐は何も聞かなかったが、蓮司自身がその命令に微かな苛立ちを覚えた。
追いかけてくるなと言われたばかりだ。
それでも、誰の車だったのかは知っておきたい。
理由を説明しろと言われれば、答えられない。
妻が見知らぬ男の車に乗って出ていったからだ、と言うのはあまりにも感情的だった。
感情的。
その言葉が自分に似合わないことくらい、蓮司にも分かっていた。
「社長」
「何だ」
「ご朝食は?」
蓮司はテーブルを見た。
「いらない」
「昨夜もほとんど召し上がっていなかったと伺っていますが」
「誰から聞いた」
「家政婦です」
「余計な報告をさせるな」
「奥様がいらっしゃる時は、私が申し上げる必要もなかったものですから」
片桐は淡々と言った。
蓮司が顔を上げる。
「どういう意味だ」
「そのままの意味です。奥様は、社長がお食事を抜くと必ず何か口に入るよう手配されていましたので」
「そんなことは知っている」
口にした瞬間、違和感があった。
本当に知っていたのか。
澪がしていることは見えていた。
しかし、それを「澪がしている」と意識していただろうか。
テーブルに食事がある。
薬が補充されている。
出張前に荷物が整っている。
シャツのボタンがなくなれば、翌朝には直っている。
その一つ一つを、家というものの機能だと思っていた。
誰かがやっていると頭では分かっていても、その誰かを見てはいなかった。
「車を出せ」
「承知しました」
蓮司は離婚届を封筒へ戻した。
署名はしなかった。
するつもりもなかった。
少なくとも今は。
会社へ向かう車内で、蓮司は資料を開いた。
文字は読める。
意味も理解できる。
それなのに、頭に残らない。
三ページ目まで進んでから、最初のページに何が書いてあったのか思い出せず、閉じた。
「社長」
助手席の片桐が振り返る。
「何だ」
「先ほどの車両ですが、確認が取れました」
蓮司は窓の外を見たまま答えた。
「言え」
「アルカディア・グローバル系列の車両です」
蓮司の目が動いた。
「アルカディア?」
「はい。登録上は国内統括部門の社用車です」
アルカディア・グローバル。
知らない企業ではない。
むしろ、世界規模の複合企業として知らない方が難しい。
医療、素材開発、投資、テクノロジー、ファッションなど複数の事業を持ち、近年は御堂グループともいくつかの案件で接点がある。
「なぜ、澪の迎えにアルカディアの車が来る」
片桐は答えなかった。
答えられるはずもない。
「誰が乗っていた」
「警備カメラの映像では、神崎征司氏と思われます」
今度こそ蓮司は顔を上げた。
「神崎が?」
「はい」
神崎征司。
アルカディア・グローバルのCEO。
国内外の経済誌で何度も見た顔だ。
無駄な社交を嫌い、必要な場にしか出てこない男としても有名だった。
「間違いないのか」
「画像照合では、かなり高い確率です」
蓮司は黙った。
なぜ、神崎が澪を迎えに来る。
知り合いなのか。
どこで。
いつから。
三年間、澪はほとんど仕事をしていないと思っていた。
少なくとも、自分はそう認識している。
なら、世界企業のCEOと個人的な接点などあるはずがない。
「社長」
「続けろ」
「現時点では、それ以上は分かりません」
「分かった」
蓮司は短く答えた。
片桐は前を向いた。
車内に沈黙が戻る。
蓮司はスマートフォンを取り出し、澪の番号を表示した。
指が通話ボタンの上で止まる。
追いかけてこないでほしい。
そう言われた。
ただ、話をするくらいなら違う。
まだ正式に離婚したわけではない。
夫婦なのだから、連絡を取るのは当然だ。
理屈を組み立ててから、蓮司は電話をかけた。
数回の呼び出し音。
出ない。
もう一度かける。
やはり出ない。
三度目にかけようとして、やめた。
自分でも、しつこいと思った。
代わりに短いメッセージを打つ。
『話がしたい。今日中に連絡をくれ』
送信。
既読はつかなかった。
九時からの会議では、蓮司は普段通りに振る舞った。
少なくとも周囲にはそう見えたはずだ。
海外事業部長の報告を聞き、数値の甘い部分を指摘し、予定より二週間遅れている案件に対して修正案を求める。
ただ、会議の途中で一度だけ、自分でも珍しいミスをした。
「この案件は前四半期の数字を基準に――」
「社長」
担当役員が遠慮がちに口を挟む。
「こちらは今期第二四半期の資料です」
会議室が静かになった。
蓮司は手元の資料を見た。
確かに違う。
「……失礼した。続けてくれ」
誰も何も言わない。
だが、片桐だけはちらりとこちらを見た。
会議後、蓮司は執務室へ戻った。
机に置かれたコーヒーを一口飲み、思わず顔をしかめる。
苦い。
いつもと豆が違うのかと思ったが、秘書室に同じものを淹れさせているはずだ。
「片桐」
「はい」
「コーヒーが違う」
片桐はカップを見た。
「いつもの銘柄です」
「味が違う」
「ご自宅では、奥様が淹れていらしたからではありませんか」
また澪だ。
朝から何度その名前を意識したか分からない。
「コーヒーくらいで大げさだ」
「そうかもしれません」
片桐は否定しなかった。
「ただ、奥様は社長の体調によって濃さを変えていたようです」
「なぜお前が知っている」
「以前、社長が胃を悪くされた時に、奥様から会社でも濃すぎるものを出さないよう頼まれましたので」
蓮司はカップを置いた。
そんなことは聞いていない。
いや、聞く必要がないと思っていた。
そういうことばかりだった。
「昨日、妻が何か連絡してきていないか」
「私にはありません」
「弁護士からは?」
「現時点では何も」
蓮司は椅子の背へ身体を預けた。
十分ほど前に送ったメッセージも、まだ既読にならない。
「予定を詰めろ」
「午後ですか」
「今日全部だ。空いている時間をなくせ」
片桐が一瞬だけ黙った。
「承知しました」
仕事をしていればいい。
これまでだってそうしてきた。
考える必要のないことは、仕事の量で押し流せばいい。
昼を過ぎ、夕方になり、夜まで働いた。
澪からの返信はなかった。
午後九時を過ぎて、ようやく会社を出た。
車の中で、蓮司はもう一度スマートフォンを確認する。
既読にはなっている。
だが返信はない。
それだけで、妙に腹が立った。
無視する必要があるのか。
三年間夫婦だった。
せめて話くらいできるだろう。
帰宅すると、玄関が暗かった。
普段なら澪が起きていれば、廊下に小さな灯りが点いている。
遅く帰る夫が足元を取られないようにという理由だった。
そんなことまで、今夜になって初めて気づく。
「ただいま」
無意識に口から出た。
返事はない。
自分で言ったことに気づき、蓮司は顔をしかめた。
誰もいない家にただいまと言う習慣など、自分にはないと思っていた。
リビングへ入る。
朝のままだった。
いや、家政婦が片付けたので離婚届や指輪はもうない。蓮司が自室へ持っていった。
けれど、空気そのものが違う。
生活の音がしない。
澪は騒がしい女ではなかった。
テレビを大音量でつけることもないし、長電話もしない。
それなのに、いなくなると家中が妙に静かだった。
蓮司はジャケットを脱ぎ、寝室へ向かった。
明日のシャツを取ろうとして、クローゼットを開く。
そこで初めて気づいた。
澪の服が減っている。
全部ではない。
御堂家で買ったものや、贈られたブランド品はほとんど残されている。
なくなっているのは、地味な服ばかりだった。
結婚前から持っていたのだろう。
蓮司はその違いを知らなかった。
どれが自分たちの結婚後に買った服で、どれがそれ以前のものなのか。
妻の服なのに。
クローゼットの端に、昨夜着ていた銀白色のドレスが掛けてあった。
蓮司はそこで立ち止まった。
昨日、初めて見たはずなのに、印象に残っている。
澪によく似合っていた。
それを今になって思った。
パーティーの時、一言も言わなかった。
言う必要があるとも思わなかった。
妻なのだから、隣にいる。
綺麗だと思っても、それをわざわざ言葉にする意味が分からなかった。
今は、その意味が少しだけ分かる。
言わなければ、伝わらない。
そんな当たり前のことを、昨日まで考えたこともなかった。
蓮司はドレスの袖へ触れた。
柔らかい。
見た目より軽い布地だった。
タグを探す。
ない。
仕立ての良い服なのは分かるが、ブランド名がどこにも見当たらない。
「自分で選んだのか……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
ふと、玲奈の言葉を思い出した。
MIOに似ている。
澪は「参考にはしていない」と言った。
あの時は強がりだと思っていた。
蓮司はドレスから手を離した。
考えすぎだ。
そんなはずはない。
リビングへ戻る途中、洗面所の前で足を止めた。
胃薬が補充されている。
その隣には、いつも使っている鎮痛剤。
歯ブラシの予備。
髭剃りの替え刃。
全部揃っている。
澪が出ていった後もしばらく困らないようにしたのか。
そう考えた途端、腹の奥が妙に重くなった。
あの女は、出ていく準備をしながら、なぜ自分の薬まで補充していたのだ。
嫌いになったから離れるわけではない。
そう言っていた。
まだ好きだと。
蓮司は洗面台へ両手をついた。
「だったら、なぜ……」
答えは分かっている。
彼女自身が言った。
好きだから何でも耐えられるわけではない、と。
理屈では分かる。
感情では、理解できない。
好きならいればいい。
不満があるなら言えばいい。
直せるものは直す。
必要なものは用意する。
それでいいと思っていた。
しかし、それが全部間違っているのだとしたら、自分は何をすればいい。
スマートフォンが震えた。
蓮司はすぐに画面を見る。
澪ではない。
母からだった。
通話を切ろうとして、やめる。
「何だ」
『何だじゃないでしょう。今朝、澪さんが家を出たって本当なの?』
「誰から聞いた」
『家政婦よ。あなた、まさか本当に離婚なんて――』
「母さんには関係ない」
『関係ないわけがないでしょう。御堂家の問題なのよ』
その言葉に、蓮司の表情が冷えた。
「昨日、あれだけ人前で妻を侮辱しておいて、今さら家の問題か」
『私は事実を言っただけよ。そもそも澪さんがあんなに思い詰めているなんて、あなたが気づくべきでしょう?』
図星だった。
だからこそ腹が立った。
「少なくとも、母さんに言われたくはない」
『蓮司』
「切るぞ」
『待ちなさい。玲奈さんからも連絡が来ているの。昨日のことを気にしているわ。澪さんに謝りたいって』
「必要ない」
『あなたが決めることじゃないでしょう』
「今は余計なことをするな」
通話を切った。
数秒後、また着信。
今度は玲奈だった。
蓮司は取らなかった。
それより澪からの返信が気になった。
メッセージ画面を開く。
既読。
やはり返信なし。
蓮司は短く打った。
『離婚届にはまだ署名しない。話し合いたい』
送る。
数分後。
初めて返信が来た。
『分かりました。ですが、結論は変わりません。必要な話し合いについては、明日以降、代理人からご連絡します』
それだけだった。
蓮司は画面を見つめた。
妻からの文章には、いつもの柔らかさがない。
丁寧ではある。
だが、もう夫へ送る文面ではなかった。
仕事相手と変わらない。
その距離が、予想以上に堪えた。
『澪、どこにいる』
送信。
返信はない。
『今朝の男は誰だ』
そこまで打って、蓮司は指を止めた。
自分が何を聞こうとしているのか理解して、全部消した。
夫として問い詰める権利がある。
そう考えかけた。
だが離婚を求められている男が、それを盾に相手の行動を縛るのは違う。
その程度の分別はある。
それでも、神崎の顔が頭から離れなかった。
なぜ、あの男が迎えに来た。
澪とどういう関係なのか。
三年間、自分が知らなかっただけで、妻には別の人間関係があった。
その当然の事実が、今さら突き刺さる。
蓮司は冷蔵庫を開けた。
朝に見たスープがまだ入っている。
家政婦が捨てなかったらしい。
鍋ごと取り出し、自分で温める。
コンロを使うことなどほとんどない。
火加減が分からず、少し吹きこぼした。
「くそ……」
雑巾を探し、見つからない。
ようやく引き出しの奥から布巾を出し、汚れを拭く。
自分の家なのに、どこに何があるのか知らない。
それも澪がいなくなったから初めて知った。
温めたスープを一人で食卓へ運ぶ。
一口飲む。
薄味だった。
だが、いつもの味だった。
昨夜か、その前に澪が作ったものだ。
これが最後になるかもしれない。
そう思った途端、スプーンが止まった。
蓮司はしばらくそのまま座っていた。
誰もいない向かいの席を見る。
三年間、そこには澪がいた。
自分がスマートフォンを見ている間も。
仕事の電話をしている間も。
新聞を読んでいる間も。
毎朝、同じように。
澪は何を話していた。
最近読んだ本。
庭の花。
家政婦の孫が受験に受かった話。
新しくできた店。
自分はどれくらい返事をしていただろう。
半分も覚えていない。
蓮司は初めて思った。
妻がいなくなったのではない。
自分は、妻がいる生活を失ったのだ。
その二つが同じではないことに、ようやく気づき始めていた。
スマートフォンが再び震える。
今度は片桐からのメッセージだった。
『社長、明朝の件で一点ご報告があります。アルカディア・グローバルより、御堂ライフスタイルとの共同事業に関する臨時連絡が入りました』
続いて、もう一通。
『先方より、予定していたブランド案件について重大な発表があるとのことです』
蓮司は眉を寄せた。
アルカディア。
まただ。
今朝、澪を迎えに来た神崎。
そして今度は会社への連絡。
偶然だと切り捨てるには、重なりすぎていた。
蓮司は片桐へ電話をかけた。
「重大な発表とは何だ」
『詳細は伏せられています。ただ、ファッション部門に関する内容だそうです』
「ファッション?」
『はい。それと、もう一つ』
「言え」
片桐が少し間を置いた。
『三年間活動を休止していたデザイナー、MIOが復帰するとの情報が出ています』
蓮司の視線が、寝室の方向へ向いた。
昨夜の銀白色のドレスが思い浮かぶ。
玲奈の言葉。
MIOに似ている。
澪の返事。
――参考にはしていません。
まさか。
蓮司はそう思った。
そして、その瞬間初めて、自分が妻について何も知らないという事実が、恐怖に近い形を持って胸の中へ入り込んできた。
第26話 あなた、医者なの? 東都国際医療センターへ着いた頃には、撮影スタジオを出てから三十分近くが経っていた。 澪は車が正面玄関へ着く前に、久我から届いたメッセージをもう一度確認した。『意識清明。循環動態は安定。重篤な不整脈なし。採血結果待ちです。現時点では脱水、鉄欠乏性貧血、摂取不足が主因として考えやすいですが、念のため経過観察します』 少なくとも命に関わる状態ではない。 その一文を頭の中で確認して、ようやく肩の力が少し抜けた。「状態は?」 隣から蓮司が尋ねる。「今のところ安定しています。重い心臓の異常も見つかっていないそうです」「そうか」 蓮司も明らかに安堵した。 撮影中に倒れたのはアルカディア側が手配したモデルだが、御堂ライフスタイルとの共同事業で起きた事故でもある。会社として病院まで来ること自体は不自然ではない。 ただ、蓮司がわざわざ自分と同じ車へ乗る必要まではなかった。「ここからは私だけでも大丈夫ですよ」 澪が言うと、蓮司は窓の外を見たまま答えた。「会社として説明を聞いてから帰る」「本当に半分は仕事なんですね」「残り半分ももう言っただろ」「心配だから?」「ああ」 最近は、こちらが困るくらい素直だ。 澪はそれ以上何も言わず、車が停止するのを待った。 病院の自動扉を抜けた途端、独特の空気が身体にまとわりつく。 消毒薬の匂い。 低く抑えられた話し声。 遠くから聞こえるストレッチャーの車輪の音。 案内表示。 白衣。 ナース
第25話 倒れたモデル 翌朝八時、撮影スタジオにはすでに大勢のスタッフが集まっていた。 アルカディアと御堂ライフスタイルの共同ブランド、その新作を使った最初の大規模な広告撮影である。白い壁と高い天井に囲まれたスタジオには照明機材が並び、衣装ラックの間をスタイリストやメイク担当者が忙しく行き来していた。 澪は予定より三十分早く入り、昨夜手直しした衣装を一着ずつ確認していた。「右肩、もう一度上げてみてください」 昨日、着用時の違和感を訴えたモデルが腕を上げる。「どうですか?」「昨日より全然いいです。引っかかりません」「痛みは?」「ないです」「なら大丈夫そうですね」 澪は縫い目へ指を滑らせ、念のため本人が腕を前後へ動かすところまで確認した。 見た目だけ美しくても意味がない。 写真では一瞬しか残らなくても、その一瞬のために着る人間が苦痛を我慢する服を作りたいわけではなかった。「澪さん」 背後からスタッフに呼ばれる。「御堂ライフスタイルの皆さんがお見えです」「もう?」「九時予定だったんですが、社長も一緒です」 澪の手が止まった。「蓮司さんも?」「はい」 共同事業の最初の広告撮影なのだから、社長が視察に来てもおかしくはない。 おかしくはないのだが。「仕事です」 自分に言い聞かせるように呟くと、隣のスタイリストが不思議そうに振り向いた。「何がです?」「何でもありません」 数分後、蓮司は片桐と商品開発担当者を連れてスタジオへ入ってきた。 澪と目が合う。「おはよ
第24話 後悔の始まり 澪との協議を終えて社長室へ戻った蓮司は、机の上に置かれた書類を一枚も読めないまま、十分以上同じページを眺めていた。 普段なら考え事を抱えていても、仕事を始めれば頭は切り替わる。数字は数字として処理し、判断すべきことを先送りにはしない。それができるから、この年齢で御堂ライフスタイルを任されてきた。 しかし今日は駄目だった。『離婚は撤回しません』 澪の声が、何度も戻ってくる。 冷たく突き放されたわけではない。 むしろ逆だった。 自分が変わり始めたことを認めてくれた。嬉しいとも言ってくれた。別の女を好きになるのは嫌だとまで言った。 それでも、離婚する。 その事実が、蓮司にはまだうまく理解できなかった。 仕事なら、改善が認められたなら次の機会がある。 失敗の原因を修正し、相手の要求を満たせば、交渉を続けられる。 だが結婚は違うらしい。 今から正しいことをしたからといって、それまでの三年間が帳消しになるわけではない。 むしろ澪は、今の自分を見ているからこそ離婚したいと言った。 夫婦という形から一度離れなければ、この変化が本物なのか分からない。 理屈としては理解できる。 感情は、まったく納得していなかった。「社長」 片桐の声で、蓮司はようやく顔を上げた。「何だ」「同じページを十五分ほどご覧になっています」「見ているだけだ」「読んではいらっしゃらないようですが」「お前は監視員か」「秘書です。十五時の経営会議が五分後ですので、一応お知らせしました」 蓮司は腕時計を見る。 本当に五分前
第23話 離婚は撤回しません 三日後、二度目の正式な離婚協議が行われた。 場所は前回と同じ、御堂ライフスタイル本社の来客用会議室だった。 窓の外には秋晴れの東京が広がり、遠くのビルまでくっきり見える。澪は星野弁護士と並んで座りながら、テーブルの上に置かれた合意書案を一枚ずつ確認していた。 財産分与については、澪が請求しない意思を明確にした上で、将来的な争いが起こらないよう文言が整えられている。御堂家から贈られた宝飾品や衣類についても、所有権の確認が済んだ。婚姻中に共同名義で取得した不動産はなく、子供もいない。 法律上だけを見れば、二人の離婚は驚くほど簡単だった。 難しいのは、紙に書けない部分ばかりだ。「こちらについては、双方異議なしということでよろしいでしょうか」 星野が尋ねると、蓮司側の藤原弁護士が頷いた。「問題ありません」「御堂さんも?」「ああ」 蓮司は短く答えた。 今日は仕事の時と同じ濃い色のスーツを着ている。表情も落ち着いているが、机の端に置かれた離婚届には、まだ署名がない。 澪はそこを見ないようにしていた。 合意書がまとまれば、残るのは署名だけになる。 蓮司が書けば終わる。 書かなければ、さらに話し合うことになる。「では最後に、届出時期について確認しましょう」 藤原が言った。 やはりそこへ来る。「佐伯さん側は、合意書締結後できるだけ早く、というご希望で変更ありませんか」「ありません」 澪は迷わず答えた。 蓮司の指が僅かに動いた。「御堂さんは?」 藤原に尋ねられ、蓮司は数秒黙っていた。「その前に、一つだけ澪
第22話 愛されたかっただけ 御堂邸から私物を持ち帰った翌朝、澪はいつもより早く目を覚ました。 まだ外は薄暗く、カーテンの隙間から見える空には夜の色が残っている。二度寝をするには中途半端な時刻だったが、頭だけは妙に冴えていた。 昨夜の会話が、何度も浮かんでくる。『君は、どんな人なんだ』 三年間、欲しかった問いだった。 だから嬉しかった。 同じくらい、腹も立った。 欲しかった言葉は、欲しかった時に届かなければ、それだけで傷になることがある。けれど、遅れて届いたからといって価値がなくなるわけでもない。 そこが厄介だった。 澪はベッドから出ると、まだ冷たい床を踏んでキッチンへ向かった。自分一人のために湯を沸かし、コーヒー豆を挽く。結婚中は蓮司の体調に合わせて豆を変えていたが、今は自分の好きな酸味のあるものを選んでいる。 カップへ湯を注ぎながら、ふと笑ってしまった。「私、これが好きだったんだ」 誰かに合わせる必要がなくなってから、ようやく自分の好みを思い出すことが増えた。 コーヒーは少し酸味がある方が好き。 朝はパンより米。 休日には予定を詰めたくない。 高級なレストランより、小さくて静かな店の方が落ち着く。 雨の日は嫌いではない。 花なら薔薇より白い小花が好き。 そんな小さなことを、蓮司はほとんど知らない。 だが同時に、澪自身も結婚生活の中でそれをほとんど口にしてこなかった。 蓮司が聞かなかった。 澪も言わなかった。 その結果、「御堂澪」という妻だけが出来上がり、その中にいた佐伯澪は少しずつ見えなくなった。 スマートフォンが振動した。 神崎から
第21話 夫婦だったのに知らないこと 悠真と昼食を終えた澪がアルカディア本社へ戻ったのは、午後一時を少し過ぎた頃だった。 午前中を休みにしたとはいえ、午後からは共同ブランドの試作品確認と海外チームとのオンライン会議がある。エレベーターの中で髪をまとめ直し、頭を仕事へ切り替えようとしていたところへ、スマートフォンが震えた。 星野弁護士からだった。『御堂氏側より、前回協議事項について修正版が届きました。財産分与請求を行わない旨についても、後日の争いを避けるため合意書へ明記する方向で問題ありません。ただし、御堂氏本人から一度、婚姻中の私物について確認したいとの申し出があります。代理人を介した方がよろしければ、そのように対応します』 澪は画面を見ながら、少し考えた。 御堂邸には、まだ自分の物が残っている。 結婚後に買った高価な衣服や宝飾品については返却するつもりだったし、すでに一覧も作ってある。ただ、その中には自分が持ち込んだ本や、小さな裁縫道具、母の遺品なども混じっていた。 すべて家政婦にまとめてもらうこともできる。 その方が楽だ。 けれど、三年間暮らした家から自分の物を他人に選別してもらうことに、少し抵抗もあった。『私物については、私が一度確認に行きます。御堂さんが不在の時間でも構いません』 送信してからエレベーターを降りる。 すると数分もしないうちに、星野から返事が届いた。『御堂氏から「自分も立ち会いたい。ただし佐伯さんが嫌なら退席する」とのことです』 澪は思わず立ち止まった。 以前の蓮司なら、立ち会うのが当然だと言った気がする。 嫌なら退席する。 最近の彼は、こういう細かな部分まで少しずつ変わっている。 それが嬉しいのか、面倒なのか、自分でももう分からない。『構いません。明日の十







